特別寄稿

平成前半期の年金を振り返る

神奈川県立保健福祉大学 名誉教授 山崎 泰彦
神奈川県立保健福祉大学 名誉教授 山崎 泰彦

 平成時代を終えるに当たって、本稿では、平成時代の年金改正のうち、現行制度の基本的枠組みを構築した平成16(2004)年改正前の時期に限定して、3つの法改正に係る国会公聴会での意見陳述を中心に、記してみたい。
 公聴会とか参考人質疑というのは、重要法案について、専門家や利害関係者の意見を聞き、審議の参考に資するものである。ただ、実際には、採決を前提に与党主導で開催されることが多く、審議を尽くしたという形を整えるための形式的なものだという批判がなくはない。

平成6(1994)年改正

改正の概要

・60歳台前半の老齢厚生年金の見直し(定額部分の支給開始年齢を平成25(2013)年までに段階的に65歳まで引き上げ)

・在職老齢年金制度の改善(賃金の増加に応じて賃金と年金額の合計が増加する仕組みへの変更)

・可処分所得スライドの導入(過去の賃金再評価の方式を変更し、税・社会保険料の増加を除いた可処分所得の上昇率に応じて再評価)

・遺族年金の改善(共働き世帯の増加に対応し妻の保険料拠出も年金額に反映できるよう、夫婦それぞれの老齢厚生年金に2分の1に相当する額を併給する選択を認める)

・育児休業期間中の厚生年金の保険料(本人分)の免除

・厚生年金に係る賞与等からの特別保険料(1%)の創設

 平成5(1993)~6(1994)年は、国政の激動の年であった。平成5(1993)年6月には、衆議院本会議で宮沢内閣不信任案の可決、衆議院解散。その直後、新党さきがけ結成(代表武村正義)、新生党結成(党首羽田孜、代表幹事小沢一郎)。7月の総選挙では、自民党過半数割れ、社会党減少、新生党・日本新党などが躍進し、自社両党主導の55年体制が崩壊。8月には、非自民8党派の連立内閣が成立し、自民党が38年ぶりに政権離脱することになった。
 しかしそれもつかの間、平成6(1994)年4月には、佐川急便グループからの1億円借金問題で、細川首相が辞任。羽田孜内閣が成立したが、社会党の政権離脱により、少数与党での発足となり、日本国憲法下では最短のわずか2か月で総辞職。6月には、自民・社会・さきがけの連立による村山内閣が成立した。

連立政権下の改革の推進

 目まぐるしい政権の交代であった。だが、この当時、政権交代前の自民党政権下にあってすでに、年金を政争の具に供してはならないという超党派の取り組みの機運があり、政権交代後の与党間の調整作業にも引き継がれた。それが支給開始年齢の引き上げという難問を切り開く、政治的な基盤を形成した。
 また、連立政権下にあって、労働組合側でも、連合の大胆な政策転換があった。在職老齢年金の見直し、失業給付と年金の調整、ネット所得(手取り賃金)基準の年金額の改定など、改正法案の主要事項は、いずれも連合の政策要求として掲げられていたものである。従来の対応から一変した連合の協調的な姿勢と政策立案能力のレベルアップは高く評価できるものであった。細川内閣から村山内閣へと、連合が政権与党を支えるステークホルダーの側にあったことが大きいのだろう。
 さらに、高齢者雇用と育児休業の普及という目標に向かっての厚生省と労働省の連携のとれた取り組みも、従来に見られなかった特筆すべきことであった。
 改正法案には、年金政策の革新の萌芽が随所に見られた。第1に、高齢者の雇用を促す仕組みに年金制度を組み替えたこと。第2に、ネット所得スライド制の導入により、高齢世代と現役世代の均衡を図る仕組みを組み込んだこと。第3に、育児休業期間中の本人負担分の保険料免除により、年金制度の側からも育児支援を強化するものであること。
 改正法案に係る衆議院厚生委員会の公聴会(平成6(1994)年10月20日)では、以上のような趣旨の意見陳述をした。

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